- ● ・・・日本真珠養殖の歴史
- ● ・・・北村真珠養殖の歴史
- 1901年(明治34年)
- 現社長の高祖父である北村幸一郎が三重県渡会群南勢町迫間浦養殖場で真珠養殖に着手する。
- 1905年(明治38年)
- 真円真珠の生産に御木本幸吉氏が成功する。
- 1908年(明治41年)
- 真円真珠の特許が見瀬辰平氏・西川藤吉氏に共有される形で登録される。
- 1911年(明治44年)
- 三重県渡会郡鵜倉村カサラギ池にカサラギ養殖場を開設する。
- 1913年(大正2年)
- 三重県北ムロ群長嶋町に長嶋養殖場を開設する。北村幸一郎は新たな真珠養殖場を開拓するため、三重県から長崎県の対馬へ渡り現地調査を始める。
- 1919年(大正8年)
- 養殖真円真珠が天然真珠より25%安い価格で御木本氏によりロンドン市場に供給され、ヨーロッパの宝石業者を脅かすことになる。
- 1921年(大正10年)
- 長崎県対馬の大船越に大船越養殖場を開設する。対馬における本格的な養殖真珠の先駆けとなる。
- 1921年(大正10年)
- 神戸市で藤堂安家氏が初めて真珠のシミ抜き、調色に成功する。このシミ抜き、調色技術を求めて真珠の加工業者が神戸に集まるようになる。また、真珠養殖は関西以西で発展したため関西最大の貿易港を持つ神戸に日本中の真珠が集まるようになり、神戸は真珠の集産地となっていく。
- 1924年(大正13年)
- パリで行われた真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無いと判決を受け、養殖真珠は世界に認められる宝石となる。養殖真珠が市場に出回るようになり天然真珠の価格は暴落する。
- 1926年(昭和元年)
- 国内真珠生産量が67万個(約377kg)を記録する。
- 1930年(昭和5年)
- イケチョウ貝による真珠養殖の商品価値化に藤田昌世氏が成功する。
- 1931年(昭和6年)
- 神戸市葺合区に店舗を設置する。真珠養殖と並行して加工・国内販売・海外輸出を営む。「共細胞」の研究を始めるが失敗に終わる。
- 1932年(昭和7年)
- 天然真珠より安価な養殖真珠の出現により、国家総収入の9割を天然真珠に依存していたバーレーン、クウェート等の中東諸国は真珠の国から石油の国へと変貌していく。
- 1934年(昭和9年)
- フィリピンで世界最大の真珠とされる、「アッラーフの真珠」(最大直径23cm重さ6.5kg推定53億円)が発見される。
- 1935年(昭和10年)
- イケチョウ貝による淡水真珠養殖が開始される。
- 1938年(昭和13年)
- 北村勤が第2代目社長に就任する。
- 1938年(昭和13年)
- 国内真珠生産量が1,100万個(約6t)に達する。
- 1939年(昭和14年)
- 長崎県対馬に大山養殖場を開設する。
- 1939年(昭和14年)
- 第二次世界大戦が始まる。
- 1940年(昭和15年)
- “7.7ぜいたく禁止令”と言われた「奢侈品(しゃしひん)等製造販売禁止規則」が7月7日より施行され、真珠養殖事業が全面停止となる。
- 1945年(昭和20年)
- 神戸大空襲により神戸市熊内町の神戸営業所は焼失するが、真珠は地中に埋められていたため空襲の被害を免れる。
- 1945年(昭和20年)
- 第二次世界大戦が終わり、GHQにより真珠の一般売買の禁止、及び戦時中の統制団体である合同真珠㈱の在庫品の接収という強制措置がとられる。
- 1946年(昭和21年)
- 終戦後、埋設していた真珠を原資にして養殖事業を再開する。
- 1947年(昭和22年)
- 再び「共細胞」の研究を始め成功を収める。
- 1949年(昭和24年)
- GHQによる真珠取引制限が解除され、真珠の復興が始まる。
- 1950年(昭和25年)
- 養殖・加工を行う「北村真珠株式会社」と国内販売・海外輸出を行う「株式会社北村商店」にそれぞれ株式会社化する。
- 1951年(昭和26年)
- ㈱北村商店を北村真珠㈱に吸収合併し、新資本金を2,000万円に増資する。
- 1952年(昭和27年)
- 「真珠養殖事業法」が制定される。養殖真珠の助長、真珠の品質向上を図り、真珠の輸出促進とこれによる国民経済の発展に寄与することを目的とされた。
- 1952年(昭和27年)
- 長崎県対馬に大増養殖場を開設する。
- 1953年(昭和28年)
- 販売員を米ニューヨーク州に派遣する。
- 1954年(昭和29年)
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長崎県壱岐の地元業者に資金資材を提供し養殖を始める。
三重県カサラギ養殖場にて三重県水産試験場と提携して稚貝の採苗を行う。
- 1954年(昭和29年)
- 戦前から日本における真珠取引の中心地である神戸市の再興を図るため、「日本真珠会館」が設立される。竣工後まもなく昭和天皇・皇后両陛下も訪れた日本真珠会館には、日本で最初の全自動式エレベーターや全館に蛍光灯を採用するなど、当時の最新の技術がふんだんに導入された。
- 1956年(昭和31年)
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神戸真珠共同組合を日本真珠輸出組合と共同で設立する。
スイス・チューリッヒに大月真珠㈱と共同で支店を開設する。
- 1957年(昭和32年)
- 資本金2500万円に増資する。
- 1959年(昭和34年)
- 神戸営業所を生田区中山手通に移転する。
- 1960年(昭和35年)
- 国内真珠輸出額が100億円を突破する。
- 1962年(昭和37年)
- 資本金3,000万円に増資する。
- 1963年(昭和38年)
- 資本金5,000万円に増資する。
- 1966年(昭和41年)
- 国内真珠生産量が戦後ピークの150tに達する。
- 1967年(昭和42年)
- 第2代目社長北村勤が日本真珠組合第3代目理事長に就任する。同年、ニューヨークで開催された真珠国際会議に出席する。
- 1968年(昭和43年)
- 「新計量法」が実施され、真珠の質量の軽量に限定して「もんめ」(匁)の使用が認められる。現在も真珠業界では世界共通の単位「mom」として認知されている。
- 1970年(昭和45年)
- 大阪万博博覧会にて真珠業界は絹業界とタイアップし、神戸の日本真珠会館で「絹・真珠展示会」を開催する。
- 1970年(昭和45年)
- 近澤進が第3代目社長に就任する。
- 1972年(昭和47年)
- 養殖業務を主とする北村真珠養殖㈱(資本金1,000万円)と北村真珠㈱(資本金1,000万円)に分離する。
- 1973年(昭和48年)
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神戸事務所を生田区北野町3丁目に移転する。
三重県カサラギ養殖場にて稚貝採苗を行う。
- 1974年(昭和49年)
- 国内真珠生産量が最盛期の約4分の1となる37.5tまで減少する。
- 1980年(昭和55年)
- “真珠の街・神戸”を発信する「Pearl City Kobe協議会」(PCK協議会)が設立される。
- 1983年(昭和58年)
- 国内真珠生産量が70tまで回復する。(北村真珠の生産量は全体の約2%)
- 1992年(平成4年)
- 新種プランクトン「ヘテロカプサ」による赤潮が三重県英虞湾に突然発生し、大量のアコヤガイが被害をうける。
- 1993年(平成5年)
- 近澤眞が第4代目社長に就任する。
- 1994年(平成6年)
- 国際会議「国際真珠サミット」が開催され、16カ国と国際機関による世界真珠機構(WPO)が発足する。翌年1995年に神戸市で第一回が開催された。
- 1995年(平成7年)
- 北村真珠養殖㈱(資本金4,900万円)と北村真珠㈱(資本金1,200万円)にそれぞれ増資する。
- 1996年(平成8年)
- 感染症によるアコヤ貝の大量斃死(突然死)が発生し、被害は全国に広がる。
- 1998年(平成10年)
- 明石海峡大橋の愛称が「パールブリッジ」に決定される。
- 1999年(平成11年)
- 国内真珠生産量が25tまで落ち込む。(北村真珠の生産量は全体の約7%)
- 2003年(平成15年)
- 真珠の養殖と自然、環境保全のための植樹活動等を行うNPO法人「ひと粒の真珠」が設立される。
- 2004年(平成16年)
- 「30年目の真珠婚」キャンペーンを日本真珠振興会が行う。
- 2006年(平成18年)
- 北村真珠オリジナルブランド「対馬紺“Tushima Blue“」を発表する。
- 2007年(平成19年)
- 真珠の街・神戸において、真珠に神戸らしいファッション性などの付加価値を創造する目的で「NEO PEARL KOBE」が設立される。
- 2007年(平成19年)
- 北村真珠オリジナルブランド「海蛍“うみほたる”」を発表する。「海蛍」は公益財団法人神戸市産業振興財団が主催する神戸セレクションに認定される。
- 2008年(平成20年)
- 真円真珠発明100周年を迎える。
- 2009年(平成21年)
- 北村真珠×COLLETE GIFTのコラボ商品「海のおくりもの」が神戸セレクションに認定される。
- 2011年(平成23年)
- 国内真珠生産量が15tまで落ち込む。(北村真珠の生産量は全体の約10%)
- 2015年(平成27年)
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「真珠検定」が一般社団法人日本真珠振興会により実施される。
真珠検定は曖昧だった真珠にまつわる価値基準や諸説を整理し、真珠の美しさをより多くの方に伝えることを目的としている。
- 2015年(平成27年)
- 近澤祐介が第5代目社長に就任。